毫攝寺の歴史
【京都へ創立】
南北朝の初期、丹波国六人部(むとべ)の城主 髙橋刑部大輔の次男出家して清範と号して禅宗を学び、京都出雲路に後青庵を立てた。後醍醐帝深く之に帰依せられ勅願所とせられた。(嘉歴元年四月一日)
その後、清範氏は禅宗の修し難く弥陀の救済の尊さを知り、名を乗専と改め、本願寺第三代覚如上人に捧げ、覚如上人の別号「毫攝(ごうしょう)」を寺号として覚如上人の三男善性師を迎へて第二代とせられた。これが創立並に西本願寺との関係の発端である。
乗専師は覚如上人を輔(たす)けて宗門へつくされた。特に聖教の書写をされて、いまだに南北朝初期の古写本として、現在数十冊が当寺に伝わっている。
【小浜移転】
応仁の乱後、高橋氏の旧領地小浜へ移転した。当時の小浜は武庫川湖畔の無人地であったが、毫攝寺の移転と共に当時の風習である門前町の形態をとって、町として発展して来た。
【最初の火災】
第十一代の住職の時、豊臣秀次が有馬保養の途中当寺へ宿泊された。
(現在表門前の老松後はその当時の手植と伝われている。)
そしてその際、住職の二女亀姫が秀次の目にとまり「小浜の局」として京都へ同行させられた。やがて秀次失脚の時、秀吉の命により福島勢に急襲され、全部の堂宇は焼却せられ、寺領も没収されてしまった。
ちなみに「太閤軍紀」には小浜の局の辞世が次の様にのせられている。
中納言 津の国 小浜殿息女
-時知らぬ 無常の風の誘ひきて 盛りの花の散りてこそゆけ-
【第二の火災】
その後、復旧して世代をかさねる内、第十七代に本山文如上人の弟君が御養子として入寺せられた。この方が三業(さんごう)惑乱(わくらん)という宗教上の異義を裁決せられたのであるが、その反対派にうらみを買い、そのため放火せられた。(文政年間)それから現在の堂宇が再建せられたのである。
徳川時代には御門跡の兼帯所として十六菊の紋章を許され、十万石の格式を与えられていた。その当時も明治以後の各種制度体制の変化と共に、種々の困難に直面したが時の住職門徒の努力の中に真実の宗教殿堂として「真宗」に奉仕するよき日を期待しつつ今日に至っている。
現在の本堂は、「三業惑乱」の後、弘化四年(一八四七)に再建し、明治十一年、昭和四十九年、阪神大震災、平成二十七年に修復し、現在に至る。
【有馬街道の小浜宿】
古代から温泉湯治のために多くの人々が往来していた有馬街道の宿場の一つ小浜宿(こはまじゅく)は、今でも古くからの街並みを残しております。
小浜は室町時代末期の明応年間(一四九二~一五〇〇年)に僧の善秀が浄土真宗の寺領として整備したことに始まり、室町から戦国、江戸時代、明治時代に至るまで地域の拠点として繁栄を続けます。
(天文五年(一五三六年)からの出来事を著した「天文日記」には毫摂寺の記述も残っています。)
【発展する小浜】
戦国時代から江戸時代に入り、交通の便が良かった小浜は幕府の直轄領となり「宿駅」の町として整備され、三つの主要街道(有馬街道と西宮街道、京伏見街道)の要衝として発展することになります。
西国の大名が参勤交代で江戸を往来する際は、必ず小浜を通るよう幕府からの指示があったとされ、一定の区間ごとに宿場を設けていた当時は最もにぎやかな場所であったと推測されます。
【歴史のある小浜の街並み】
明治以降は、鉄道の整備などの近代化に行き遅れる形となりましたが、このことが、宝塚市内でも類を見ない古い町並みを残す結果となります。
宝塚市はこの町並みを保存するため、「街並み環境整備事業」の区域に指定し、平成六年から十五年まで整備をしました。その間、平成七年の阪神大震災による大きな爪痕を残しますが、ところどころ深い味わいのある古い木造家屋は現在でも残っています。
歴史の中で、移ろう町並みの変貌はこれからも続きますが、都会と比較をすると、ゆったりと時間が流れ歴史のある小浜の町並みを穏やかに感じられることと思います
毫攝寺と豊臣氏、悲劇の亀姫
「有馬の湯」を好んだ豊臣秀吉が千利休を伴い毫摂寺に宿泊し、毫攝寺の井戸の水で茶を点てたと伝わります。
秀吉の養子・秀次が有馬温泉保養の途中に当寺へ宿泊され(表門前の老松跡はその時の手植えと伝われています。)、住職の次女亀姫を見初めて側室としましたが、秀次の失脚で妻子や他の側室とともに亀姫も三条河原で処刑され、毫攝寺も焼き打ちにあい寺領も没収されてしまいました。
【摂津名所絵図】
江戸時代の毫攝寺は、大きな松に囲まれ、別称「八松台」と言われた。